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沢田研二
沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二、1948年6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、作曲家。鳥取県鳥取市出身だが、5歳の頃から京都府京都市に移り、そこで育つ。
元ザ・タイガース、PYGのリード・ボーカル|ヴォーカル (PYGは萩原健一とのツイン・ボーカル|ヴォーカル)。ニックネームのジュリーは、本人が俳優|女優ジュリー・アンドリュースのファンだったことに由来している。日本歌謡史におけるスター|大スターの一人。1960年代から1980年代にかけて、歌謡曲が最も栄華を極めた時代にスーパー・スターとして君臨。60年代のビートルズから80年代のアダム&ジ・アンツまで、最先端の流行をいち早く取り入れるのもうまかった。歌謡界における実績はもちろん、数多くの主演映画やテレビドラマ作品を残すと同時に、バラエティ番組などでも活躍し、エンターティナーとしての評価も高い。先駆者としての実績も多く、作詞や作曲といった分野でも多くの作品を残している。1975年に元ザ・ピーナッツの伊藤エミ(本名:伊藤日出代→澤田日出代)と結婚し、一男を設けたが1987年に離婚。1989年に女優の田中裕子と再婚している。
来歴
生い立ち
1948年6月25日、母親の実家である鳥取県岩美郡津ノ井村(1963年に鳥取市へ編入:現鳥取市津ノ井)で、澤田松雄、智恵子(ちえ)夫妻の次男として誕生。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。5歳の時に、京都府京都市左京区浄土寺東田町にある(親族の)澤田家に移り、そこで育つ。京都市立第三錦林小学校、同岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学。中学では野球部に所属したが、高校では空手道|空手部に所属。
ファニーズ
京都市下京区四条通|四条河原町通|河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしている時、出演していたジェット・ブラザース|サンダースに声をかけられ、ローディー兼ボーカリスト|ヴォーカリストとして加入。その後、同じく田園に出演していたサリーとプレイボーイズ(※メンバー構成は、岸部修三(現・岸部一徳・ベーシスト|ベース)、森本太郎(ギター)、加橋かつみ|高橋克巳(ギター)、瞳みのる|人見豊(ドラマー|ドラム)からリード・ボーカル|ヴォーカルとして誘われる。1965年12月に鴨沂高等学校を退学|中退。1966年1月1日、正式にメンバーとして加入し、バンド (音楽)|バンド名をファニーズに改名。早速、大阪府道頓堀にあったジャズ喫茶ナンバ一番のオーディションを受けて合格。2月からは専属バンドとして、ローリング・ストーンズなどの洋楽コピーを演奏していた。すぐにファンクラブが結成され、程なく数百人規模となったことからも人気ぶりがうかがえる。
ザ・タイガース
当時、メンバー全員がファンクラブに加入していたザ・スパイダースの田邊昭知から、「上京するならスパイダクション(現田辺エージェンシー)に来ないか」といわれるが、ナンバ一番で共演したブルージーンズの内田裕也からナベプロ(※当時の芸能事務所「渡辺プロダクション」の略称。現在のワタナベエンターテインメント)のオーディションを受けるよう勧められ、これに応じる。1966年10月9日にナンバ一番で行われたオーディションに合格し、11月9日、新幹線で上京。11月15日、初出演のテレビ番組「ザ・ヒットパレード (テレビ番組)|ザ・ヒットパレード」(フジテレビジョン|CX系列)収録当日、関西出身ということからすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる。1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」でデビュー。この頃、メンバーのニックネームが決まり、本人が女優ジュリー・アンドリュースのファンだったことから「ジュリー」と呼ばれるようになる。セカンド・シングル「シーサイドバウンド」、サード・シングル「モナリザの微笑」で一気にブレイク。折りからのグループ・サウンズ(GS)ブームも相まって、ザ・タイガースは瞬く間にトップ・アイドルとなる。その中でも、当時の男性歌手としてはあまりにも日本人離れした大きな瞳と端正かつ甘美なルックスの沢田が10代少女に熱狂的な人気を博し、沢田は一躍GS界はおろか芸能界をも代表する国民的アイドルとなる。社会現象とまでいわれた圧倒的な人気の中、ザ・タイガースはGSブームの頂点に立つ。しかし、急速に音楽シーンが多様化し、GSブームも退潮の兆しを見せ始める。そんな中、1969年12月1日に沢田が初のソロ・アルバム「JULIE」発売。メンバーのソロ活動も増えだした1970年12月7日、ザ・タイガースは解散を表明。翌1971年1月24日、日本武道館におけるザ・タイガース ビューティフル・コンサートを事実上の解散コンサートとして、ザ・タイガースは解散する。
PYG
ザ・タイガース解散後はソロシンガーとしての活動を目論む所属事務所の意に反し、沢田はバンドでの活動に固執する(※この姿勢は、後々まで専属バンドと共に活動するという沢田のポリシーになっていく)。このため、欧米で流行っていたスーパーバンドを模した形で、1971年1月11日、ザ・テンプターズのショーケンこと萩原健一(ヴォーカル)と大口広司(ドラム)、ザ・スパイダースの井上堯之(ギター)と大野克夫(キーボディスト|キーボード)、それにザ・タイガースの岸部おさみ(後の岸部一徳、ベース)と沢田(ヴォーカル)が参加してPYGを結成。井上堯之をリーダーとして、本格的ロック (音楽)|ロック・バンドを目指すが、当時のロック・ファンには ロック=反体制の音楽 という図式があり、芸能業界最大手(当時)である渡辺プロダクション所属のPYGは、体制的商業主義と見なされて受け入れられず、猛烈なバッシングを受ける。また、従来のGSファンからも、本格的ロックを志向するスーパーバンド PYG の存在は違和感をもたれ、会場でメンバーそれぞれのファンが反目することも珍しくなかった。こうして順風満帆とはいえない船出の中、4月10日にファースト・シングル「花・太陽・雨」、8月10日にファースト・アルバム「PYG!」を発売する。これらの作品も当時は正当な評価を受けられなかったが、後年、その音楽的価値を認められ再評価を得ることになる。
ちなみに、当時はNHKステージ101に、ヤング101のメンバーとして一ヶ月のみレギュラー出演していた。1971年11月1日、萩原健一+PYGのクレジットでサード・シングル「戻らない日々」
が発売された同日、沢田は初のソロ・シングル「君をのせて〜 MY BOAT FOR YOU」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰※演奏はケニー・ウッドオーケストラ)を発売。さらに12月にはセカンド・アルバム「JULIE II IN LONDON」発売。この頃から沢田と萩原は、それぞれの活動を展開していく。萩原が参加できるときはPYGとして、萩原が参加できないときには沢田研二と井上堯之バンド(またはグループ)として活動するようになる。1972年3月11日発売のセカンド・シングル「許されない愛」がヒットして、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGとしての活動は形骸化していく。結局、1972年11月21日発売のシングル「初めての涙」を最後にPYGは自然消滅の形で終焉。しかしながら、それ以降の1973年から1975年頃までにおいても、沢田がインタビュー記事などで時折、井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」などと表現していたり、「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っているのが散見される。このことから、仲間内での意識は1973年以降もしばらく「PYG」のままであり、萩原が一緒に参加できれば「PYG」としての活動もしていく意向はあったようであるが、1975年以降、沢田の口から自分が「PYG」の一員であるという意識を匂わせる発言は見当たらない。
井上堯之バンド
1972年9月20日発売のシングル「死んでもいい」(作詞:山上路夫、作曲:加瀬邦彦)では、演奏に 井上堯之グループ がクレジットされている(※前3作まではケニー・ウッドオーケストラ)。ここでも沢田は専属バンドにこだわっている。当時、「ヒット曲を出せば好きなことがいえる。バックバンドも好きなようにさせてもらえる」と発言しており、「許されない愛」のヒットによって、これを実現したことになる。井上堯之グループ(または井上グループ)は、PYGから沢田と萩原を除くメンバーで構成されており、PYG時代から井上堯之グループ(または井上グループ)としての活動も並行していたため、沢田のソロ活動とPYG、井上堯之グループの活動を明確に分化することはできない。その後、井上堯之バンド(または井上バンド)と名乗り、バンド独自の活動もするが、基本的に沢田の専属バンドとなる。これにより、国内の音楽シーンにおいて、歌手が専属バンドを率いた最初の例となった。初出場となった1972年12月31日の「第23回NHK紅白歌合戦」にも井上堯之バンドと共に出演している(※スーパーでは「ザ・いのうえバンド」となっている)。当時からのファンの中には、沢田と井上堯之バンドを一つのロック・グループとして捉える者も多く、「沢田研二=井上堯之バンドのリード・ヴォーカル」という見方もできるほど、沢田と井上堯之バンドの結びつきは精神面、サウンド面共に強かった。以後、1980年に井上堯之バンドが解散するまで、沢田と井上堯之バンドの密接な関係は維持された。
結婚と新幹線暴行事件
実質的なソロ活動元年となった1973年には「危険なふたり」(作詞:安井かずみ、作曲:加瀬邦彦)で第4回日本歌謡大賞受賞。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加。早川の卓越したセンスと沢田の天性の才能が相まって、これ以降、常に時代の最先端をいく斬新なファッションが生み出されていく。1975年5月発売のシングル「巴里にひとり」(作詞:G.Sinoue、訳詞:山上路夫、作曲:G.Costa)の仏語版「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」がフランスのヒットチャート上位にランキングするなど、海外での活動も評価を得る。1975年6月4日に記者会見を開き、元ザ・ピーナッツの伊藤エミ(本名:伊藤日出代→澤田日出代)との入籍を発表(※当時、人気絶頂にある男性アイドルが結婚するということは考えられないことだった)。1975年7月20日、比叡山延暦寺釈迦堂での挙式直後、比叡山フリーコンサートで27,500人のファンを前に結婚を報告した。1975年8月21日発売のシングル「時の過ぎゆくままに」(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)は、沢田が主役を演じた東京放送|TBS系ドラマ「悪魔のようなあいつ」の主題歌として90万枚を超えるレコード・セールスを記録。結婚後も順調にスターダムを駆け上るものと思われた矢先、新幹線暴行事件が起きる。1975年12月、帰京する沢田を待ち受け東京駅のホームに殺到したファンを整理していた日本国有鉄道|国鉄職員の発言からトラブルとなり、相手を頭突いて軽傷を負わせ、さらに翌1976年5月、今度は新幹線車内で男性乗客に「いもジュリー」(「いもにいちゃん」という説もある)とからかわれたことからトラブルとなり、相手の口を殴って怪我を負わせた。6月15日から1カ月間の謹慎。この年の「第27回NHK紅白歌合戦」は辞退。賞レースもすべて棒に振り、スターとして絶体絶命のピンチに陥る。
スーパースター
謹慎から復帰した沢田は謝罪会見を経て精力的に活動を再開。復帰直後の1976年9月10日発売のシングル「コバルトの季節の中で」(作詞:久世光彦|小谷夏、作曲:沢田研二)、翌1977年2月1日発売のシングル「さよならをいう気もない」(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)が立て続けにヒット・チャートでランクインし、1977年5月21日に発売したシングル「勝手にしやがれ」(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)は大ヒットとなり、第8回日本歌謡大賞、第10回日本有線大賞、さらに念願の第19回日本レコード大賞など各賞を受賞し、賞レースを独占。歌謡界のスーパー・スターとしてまさに頂点を極める。歌番組だけでなく、バラエティーやドラマ、映画、コマーシャル|CMなどマルチタレントとしても活躍。単なるアイドル・スターではなく、総合的なエンターティナーであることを証明した。代表的なものとしては、当時同じ事務所に所属していたザ・ドリフターズの志村けんとの「ドリフ大爆笑」や「8時だョ!全員集合」での共演コントがある。また沢田は志村のギャグなどに付いては現在でも高く評価をしている。この時期は「テレビでジュリーをみない日はない」と言われる程の過密スケジュールをこなし、TBS系「ザ・ベストテン」など、当時高視聴率を得ていたランキング番組でも常に上位を賑わし、本人曰く、「いつもピカピカ一等賞」を目指す。「ザ・ベストテン」では、1978年11月から1982年12月までの4年間に250週中136週(138回)ランクイン(54.4%)。また、ソロ・デビューした1972年から1989年までのシングル総売上1,235万枚は当時の通算売上第1位となっている(※2位森進一、3位五木ひろし、4位松田聖子、5位山口百恵)。リリースごとに展開される奇抜なファッションや派手な振付も耳目を引き、ファン以外の人々からも「次はどんなことをするのか」と関心を集めた。ヴィジュアル系の元祖といわれているが、この他にも今日的には当たり前となったステージを動きまわるライブ・パフォーマンスを日本の音楽シーンに取り入れたり、初めて全国縦断コンサートを行うなど先駆者としての功績は大きい。また、制作面でも、多様化していく音楽ジャンルを先取りする形で、ロック・音楽家|ミュージシャンやシンガーソングライターなど、ジャンルを超えた芸術家|アーティストを起用し、その分野でも先駆者であった。同時に、オリジナル曲はもちろん、他のアーティストなどにも多数の楽曲を提供し、作詞・作曲、音楽プロデュースといった分野でも非凡な才能を発揮している。1978年、「LOVE(抱きしめたい)」(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)で第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。この年の「第29回NHK紅白歌合戦」では、それまで演歌が独占していた大トリ(※最後に出演する歌手)を初めて演歌以外のジャンルに属する歌手として務めた。
過渡期
1979年2月1日発売のシングル「カサブランカ・ダンディ」(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)ではウィスキーを霧吹きするパフォーマンスが話題となり(子供が真似をして困る、という父母からの苦情も)、続く5月31日発売のシングル「Oh! ギャル」(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)では女性用のメイクで登場して賛否を巻き起こす。主演映画「太陽を盗んだ男」(長谷川和彦監督 1979年10月6日公開)もヒットして、全盛を極める沢田のパフォーマンスはさらに過激さを増していく。そんな中、1979年3月に日出代夫人が長男を出産。その後、1979年11月に日産自動車から発売された日産・ブルーバード|ブルーバード910型のCMキャラクターを務め、CMで「ブルーバード・お前の時代だ」「ザ・スーパースター」のキャッチフレーズで人気絶頂の沢田がCMに登場していた相乗効果と、歴代ブルーバードの伝統である高い走行性能や先進性で、新型となったブルーバード910型は自動車評論家や自動車ファンからも好評を博し、ブルーバード910型は、日本国内のミドルカークラスの販売台数で長期にわたってNO.1を記録し大ヒット車種となった。4年後の1983年10月、ブルーバードは910型からU11型にフルモデルチェンジされたが、沢田が910型のCMキャラクターを務めていた事で、ブルーバードのイメージアップと販売拡大に貢献し好評を博したことから、引続きU11型のCMキャラクターを務める事となる。910型のCMに登場していた頃は長髪であった沢田は、U11型のCMでは一転して短髪にイメージチェンジして派手な衣装で登場しており、「ブルーバード、お前はスーパーゼネレーション」「世代を超えたフルチェンジ」「走りが断然素晴らしい」、後に「ブルーバードにならないか」「Be BLUEBIRD」のキャッチフレーズで好評を博していた。なお、沢田がブルーバードのCMに登場していたのはU11型の前期型迄であり、後に1985年秋にマイナーチェンジされた、U11型の後期型以降からのブルーバードのCMに沢田は一切登場していない。その後1996年9月にライバル会社のトヨタ・クレスタのCMに高橋幸宏、玉置浩二と共演している。スーパースターとしてトップを走る沢田にとって、ヒットチャートのランキングやレコード・セールスは重要な指標となっていた。1979年9月21日発売の「ロンリーウルフ」(作詞:喜多絛忠、作曲:大野克夫)は、音楽的評価は高い作品だったがセールス的には必ずしも成功しなかった。その為かこの年は年末の賞レースを早くから諦め、『YOUNG MAN(YMCA (ソング)|Y.M.C.A.)』の大ヒットで年初から突っ走っていた西城秀樹に「今年は西城クンの年や。オレの分まで頑張りや」などと激励していた。そして危機感を覚えた沢田は、翌1980年1月1日発売のシングル「TOKIO」(作詞:糸井重里、作曲:加瀬邦彦)で、電飾衣装にパラシュートを背負った姿を披露。ここまで沢田と行動を共にしてきた井上バンドの井上堯之だったが、サウンド面より、セールスやランキング、話題性を過度に意識したパフォーマンスにウエイトを置くスタンスに、「もう、これ以上ついていけない」としてバンドを解散。このことは少なからぬショックを沢田に与えた。4月に胃潰瘍で倒れ、1カ月入院。その後も吉田建を中心にALWAYS、渚のラブレターバンド、エキゾティクス|EXOTICSといったバックバンドを編成し、あくまでも専属バンドに固執した。1981年9月21日発売のシングル「ストリッパー」(作詞:三浦徳子、作曲:沢田研二)でも派手な衣装で注目を集め、自身作曲によるオリジナル曲としては最高のセールスを記録。主演映画「魔界転生」(深作欣二監督 1981年6月6日公開)も話題となる。スーパースターとして、まさに黄金時代を謳歌する一方、常に最先端を疾駆することを義務づけられた頂点に立つものだけが知る感覚も忍び寄る。1982年、ザ・タイガース同窓会 と銘打った企画では幹事を務め、11年ぶりにザ・タイガースを復活(※瞳みのるは不参加)。1982年2月5日発売のシングル「色つきの女でいてくれよ」(作詞:阿久悠、作曲:森本太郎)をヒットチャートにランクインさせ、武道館を含む全国ツアーも成功させた。しかし、1982年12月公開の映画「男はつらいよ|男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」(山田洋次監督)における共演をきっかけに女優・田中裕子と出会い、1983年7月に不倫が発覚する。有名人の私生活を売り物とした写真週刊誌の台頭と、いまよりも不倫を絶対悪としていた当時の風潮もあって猛烈なバッシングを受ける。スーパースターであるはずの沢田が若手女優の田中に惚れ込み、追いかけて振り回されていると報道されたことから、ファンを失望させた面もあると言われる。この頃からレコード・セールスが減少することになり、18年間、常にヒット・チャートに名を連ね、歌謡界の最前線で活躍してきた沢田にとって大きな転換期が訪れる。1985年1月から半年間休養。ザ・タイガースでのデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立して株式会社ココロ(東京都新宿区)を設立(※実質的には渡辺プロダクション傘下)し、レコード会社もユニバーサルミュージック (日本)|ポリドールから東芝EMIに移籍。また、自叙伝「我が名はジュリー」(玉村豊男編 / 中央公論新社|中央公論社)を発売するなど、本人が「ターニング・ポイント」と語る目まぐるしい一年となる。音楽面では、チト河内を中心に新バンドCO-CoLOを結成して活動を再開。これまでと異なったスタイルで、私小説的なメッセージ性の強い作品を残した。
離婚と再婚の頃の活動
1987年1月、前年から別居中だった日出代夫人と正式に離婚。同月、沢田が「芸能界では父親以上の人」と敬愛してきた渡辺晋(渡辺プロダクション社長)死去。3月、京都での公演中にステージから転落。左肘を骨折して1カ月入院。9月にはファンクラブ解散。1988年、バックバンド CO-CoLO を解散し、新バンド Kris Kringl 結成。1988年5月20日、酒気帯び運転でタクシーに追突する交通事故を起こして書類送検され、1カ月の謹慎処分。沢田自身が「太りやすい体質」というように、この頃から体型の変化が顕著になる。1989年10月11日発売のアルバム「彼は眠れない」では、サウンド面における方向性を再転換し、村上秀一|村上'ポンタ'秀一を迎えて結成した新バンド JAZZ MASTER と共に精力的にライブ活動を展開。しかし、時代は既に新しい流れの中にあった。1989年11月12日、出雲大社で田中裕子と挙式(再婚)。同年の「第40回NHK紅白歌合戦」ではソロでの他、ザ・タイガースとしても出場。出場者としては初めて同一回の「NHK紅白歌合戦」に2度出場する珍記録を樹立する。また、以後10年間継続する ACTシリーズ(音楽劇)がスタート。1992年頃から、変貌する芸能界を嫌い、メディアへの露出が極端に少なくなった。往年のヒット曲や過去の栄光、メディアを通じて作られた自身の虚像に拘束されることを拒否するスタンスを示す。「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」として、1995年以降、アルバムはすべて沢田がセルフ・プロデュースしている。また、いわゆる団塊の世代に属する沢田は、「同年代の人たちが元気になるような音楽を作っていきたい」とコメント。それは、スーパースターとしての栄光とジレンマ、そして、時代やニーズ、商業主義といった嵐のような流れの中から、沢田が見つけた一つの答えなのかも知れない。
近年
1997年には、岸部一徳(かつての岸部おさみ)、森本太郎とともにロックユニット TEA FOR THREE を結成した(現在は活動休止中)。頑ななまでの姿勢を貫いていたが、2001年にはメディアにも登場し、ひさびさに話題を提供した。2002年、自主レコードレーベルとなる JULIE LABELを設立し、以降のオリジナル・アルバムは独特のパッケージ・デザインとなる。2004年12月25日には23年ぶりとなるクリスマス・コンサートを東京国際フォーラム(ホールA)で開催。
2005年3月には、デジタル・リマスターされたCDで、ポリドール当時のアルバム21タイトル、9月にはベスト・アルバム「Royal Straight Flush」、「Royal Straight Flush II」、「Royal Straight Flush III」が再販売され、「Royal Straight Flush」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインして話題になると同時に、いまなお衰えぬ根強い人気を証明した(※1991年にも25周年記念としてアルバム21タイトルが、また1996年に30周年記念としてアルバム32タイトルがCDで再販売されている)。また、同年の2005年には、地方公演ドタキャン事件も起きている。原因は、主催者側との契約にある、規定動員数に達しない場合、コンサートを行わないということから起きている。2006年には加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズ|ワイルドワンズの40周年記念公演に参加し、ゲスト出演ながら久々に日本武道館で熱唱した。また2007年にはデビュー40周年、2008年には自身の還暦を迎えるにあたり、何らかのアニバーサリーイベント(1991年の25周年記念武道館公演や1996年の30周年記念アルバム「愛まで待てない」など)の実施が期待されている。現在も、毎年新曲とアルバムをリリースしてコンサート・ツアーを展開。年齢を感じさせないステージングでファンを魅了している。ここ数年はシングルとアルバムの制作、コンサート・ツアー、それに年1〜2回の舞台出演がワーキング・パターンとなっている。歌手活動以外に、パチンコ台として沢田本人をモチーフにした「CRフィーバー ジュリー・ザ・ピンボール」(三共 (パチンコ)|SANKYO)が2006年3月から登場した。
影響と功績
沢田は日本の歌謡史において避けて通ることのできない大スターの一人である。本人は必ずしも好ましく思っていないが、多くのアーティストが沢田の楽曲をカヴァーしており、その先鋭的なスタイルに影響を受けたアーティストは少なくない。また、音楽面だけでなく、類い希なエンターティナーとしても数多くの足跡を残し、多方面に影響を与えてきた。分けても様々な「パイオニア」としての功績は他に類を見ないほど大きなものがある。
影響
今日の音楽界に沢田が齎した影響としては、やはりそのファッションが特記される。1970年代前半まで、歌謡界の男性歌手はタキシードやそれに準ずる衣装、直立不動のスタイルでの歌唱がほとんどだったが、そこに独特のファッションを持ち込んだのが沢田である。分けても早川タケジのデザインによる、化粧を取り入れたスタイル(時には女装すらすることがあった)は1990年代以降持て囃された「ビジュアル系」の元祖をなすものである。実際に同類にカテゴライズされるミュージシャンが沢田からの影響を語る例は少なくなく、清春やBUCK-TICKの櫻井敦司、河村隆一などは沢田の楽曲をカヴァーしている。沢田のファッションは現在の目から見ても先鋭的なものが多く、近年になっても早川の作品集(ほとんどが沢田の写真)が出版されたり、テレビなどで映像が流されることも(沢田が解禁した2001年以降)少なくない。他にも石井竜也は米米CLUB時代の書籍で「カサブランカ・ダンディ」の衣装を纏っていたことがあり、及川光博は「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」をカヴァーした他に早川にデザインを発注したこともあり、両者は「ビジュアル系」以外でファッション面での影響が顕著な一例である。また音楽面での影響としては、「バンドサウンド」を広く人口に膾炙させた功績が大きい。「日本人による、日本語のオリジナルロック (音楽)|ロックミュージック(日本語ロック)」は1970年代前半以降、はっぴいえんどや四人囃子らに端を発しつつ現在に至っているが、それをテレビなどを通して日常生活に送り込んだのが沢田である。その証拠に、1980年代後半以降巻き起こった第二次バンドブームにおいては、沢田からの音楽的な影響を語るものが少なくない。たとえば氷室京介は沢田のバックバンドエキゾティクスのメンバーだった吉田建と西平彰をソロ活動初期のアレンジャーに迎えている。氷室が参加していたBO?WYはビジュアル系の源流としての功績も語られており、その面でも沢田からの影響を感じさせる。またプリンセス・プリンセスの奥居香(現岸谷香)はアマチュア時代に沢田の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」をカヴァーしており、後に沢田へ楽曲提供も行っている(1989年の「彼は眠れない」収録「ポラロイドGIRL」)。さらに沢田は時代時代の最先端を取り入れる才能にも長けており、その当時に気鋭のミュージシャンである若手の作品を取り上げることが多かった。佐野元春や大沢誉志幸、作詞家の覚和歌子らはそうした一例で、彼らは「''世に広く知られる前に沢田に見出されている''」点が重要である(例えば大沢は自身のデビュー前に沢田他に楽曲を提供し、「デビュー前に100万枚売った男」と言われた。覚が沢田へ詞を提供したのも、「千と千尋の神隠し」主題歌などで話題になるずっと以前である)。そのため音楽業界では「沢田と組めばビッグになれる」と言われたことすらあった。
功績
沢田が音楽界に齎した功績は、上述の「影響」としての側面も多々あるが、現在では当たり前とされている多くのことを初めて成し遂げた「パイオニア」としての功績にも目を見張るものがある。*「影響」の項目と重複するが、音楽に「ファッション」を取り込んだ第一人者が沢田である。1973年の第24回NHK紅白歌合戦で沢田は純白の衣装に赤のファー、更に足元はロンドンブーツと紅白史上初めて「正装」以外の絢爛豪華なオリジナルスタイルで登場し、アグレッシブに動き回るパフォーマンスを披露した姿は「テレビ歌唱」の概念を塗り替えるものであった(なお初出場となった前年の第23回NHK紅白歌合戦では正装で歌っている)。紅白においてこの系譜は後に小柳ルミ子を経て美川憲一や小林幸子へと受け継がれている。付言すれば、「独特のファッションでアグレッシブに歌う」というパフォーマンスは、紅白以外の音楽番組や実際のライヴステージにおいて、現今の特にロック系歌手のほとんどに見られるもので、そうした意味では以降のほぼ全ての歌手に先んじているといえる。*ザ・タイガースは日本で初めての長髪の男性アイドルである。当時は「長髪=不良」の偏見が根強く残っており、保護者らによってタイガースの公演会場から中高生が締め出されたり、人気のピーク時にもNHK紅白歌合戦への出場が叶わないという事態が発生した状況であった。*1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は日本で初めてのスタジアムライブである。*1971年1月24日のザ・タイガース「ビューティフル・コンサート」(解散コンサート)は日本人として初めての日本武道館単独公演であった。*PYG時代、初めてロンドンブーツを衣装に取り入れた。*1974年には「Rock'n Julie」と題された公演が行われているが、これは日本で初めての全国ツアーである(16都市34公演)。*さらに沢田はソロ活動初期において、PYGから派生した井上堯之バンドと活動を共にしていたが、これは日本で初めてのバックバンドである。*「MON AMOUR JE VIENS DUBOUT DU MONDE」(邦題:「巴里にひとり」)は日本人として初めてフランスのヒットチャートにBEST10入りした楽曲である。*1978年の第29回NHK紅白歌合戦で紅白史上初めて演歌歌手以外で大トリを勤めた。*1980年の「恋のバッド・チューニング」で初めてカラーコンタクトをファッションに取り入れた。なお当時のものは品質が悪く、30分程度しか着用できず視界もかなり暗かったという。*1989年の第40回NHK紅白歌合戦で紅白史上初めて1回の紅白で2度出演を果たした(ソロとザ・タイガースとして)。また、デビュー以来約40年間、毎年必ず新作アルバムを発表し、1974年以降毎年全国ツアーを開催しているという実績は、パイオニアというよりは世界的に見ても唯一無二の記録である。

